わかりすぎてわからないこと、ひとりが好きな理由

去年に続いて今年もずっと自粛とディスタンスな日々です。

人間は社会的動物であるって言われるけど、その社会の有り様自体が変わっていく過程に生きているんだなって思いますね。

社会があって人間の生活が成り立つっていうことにまったく異論はないんだけど、周囲の環境に同対処していくのがいいかについては、それぞれの好きな関わり方があってもいいんじゃないかなって思っています。

ひとりでいること、ひとりでいられること。それは自分自身とうまく付き合えるってことだと思っているんです。だから、ひとりでいられる自分が好きだし、ひとりが好き。

ひとりでいるってことは、生きていく基本の市井だと思っています。だから、それができないと、他の人ともうまく関係が持てないんじゃないかって思ったりします。

ひとり好きって言うと、人付き合いが苦手で人間嫌いみたいなイメージを持たれることが多いけど、別にそういうわけではありません。むしろ、学校や会社などではずっと積極的に関係を作ろうとしてきたし、周囲でスムースに関係が保たれるように気を使ってきたし、そう思われてきたし、そう期待されてきたことのほうが長かったと思います。


クラスで誰かが浮いていたり、馴染めない子がいると他の子より先に気がついていた。何人かの集まりでも話題が途切れるのが怖くてなんとか話を繋げなくちゃいけないって思ってた。

いつかそれがしんどくなってきて、自分がものすごく気疲れしているって気づいてしまった。

周囲の人が感じていることに気付きすぎてしまう、けどそれって自分の思い違いなんじゃないかとも思ってしまって、どうにかしたほうがいいのか、いやそれは余計なことなんじゃないかと思ったり、行ったり来たりして結局何もできなかったりすることがしょちゅう。

人の気持ちがわかりすぎて、逆にわからないって感じ。


それに気づいてから、わかると思うのをやめました。

わかりすぎてわからない。つまり、わたしにはわからないってことなんですよね。

実際、他の人の気持ちなんてほんとのところわかりようがないんじゃないかなって思うんです

自分の気持だって、わかっているようで実は全然わかっていないってことだったあるんだもの、他の人の気持ちがわかるって思うこと自体、おこがましいんじゃないかって思うようになったんです。

それからは、以前と違って「自分は鈍感なんだ」って感じています。



他の人の感情がどうなのかとか想像したりしなくなった、だからわからない。悲しいって言ってたら悲しいんだなって思う。気にしていないよって言われたら気にしていないんだなって思う。

それをそのまま受け取るようにしたら、生きるのがすごく楽になりました。

最近、繊細さんとかHSPとか言われているけど、ああそれだったのかもねって思っています。いろんな書籍が出ているみたいだけど、まだ読んでないんです。こうですってラベリングされると、またそこに自分を合わせるようにしなくちゃいけないような、そんな昔に戻ってしまう気がするから、まだ読みません。読まないかもしれません。


ラベリングがどうであれ、自分がわかるのは自分のことだけで、それすらよくわからずに自分と付き合って生きていくんですよね。

無理せずラクにひとりでいられるようになると、急に周囲の人との付き合い方も無理なくラクになりました。

ひとりが好き、ひとりでいられるようになって、はじめて個と個、孤と孤として他の人と付き合っていけるようになる。そう思っています。

今日はそんなつらつらを書いておこうと思います。

ひとりってステキに素晴らしいです。

*さり*



ひとり好きのひとりLIFE

「ひとり」って決して「孤独」じゃない。好きなことを好きなときに好きなように。自分の気持ちに素直に生きる。だから「ひとりって素晴らしくステキ」